去る四月九日、ツイッター上で一件の動画が投稿された。瞬く間に拡散されたそれは、現時点で七十万以上の再生数を産むに至り、多くのインフルエンサーによってTiktokなどでも拡散された。動画の要旨としては、一人の男が警察によって設置された内偵カメラをバットで滅多打ちに破壊するという単純なものである。内偵カメラとは警察が捜査をするにあたり、監視対象者の日常生活を丸裸にするために設置する機械である。警察が捜査上「必要」と認めさえすれば、司法の許可さえ得ずに内偵カメラを用いることができる。一般市民の日常生活、家に出入りする人物から窓越しに部屋の中身まですべてを盗撮することが合法とされている。日本国憲法第十三条によって保証された市民の肖像権は、行政が独自の判断で幾らでもこれを侵害することができるようになっているのである。もっとも、オウム事件から今日に至るまでの監視社会化の流れを考えれば、現代では市民のプライバシー権は事実上存在していない。通信傍受法、住基ネットから監視カメラ網の絶え間ない拡大、近年ではマイナンバーカードなど、「犯罪捜査」「行政の効率化」といった名目で我々の日常はすべてが政府の監視下におかれているのである。「市民の安全と利便性」を大義名分にして、現体制の絶え間ない努力によって形成されたこの現代の社会システムでは、ひとたび反体制的な思想を持ち、それを現実に打ち出して行動すれば、たちまち「市民の安全」は反体制という「元市民」に対し牙を剥く。政府はあらゆる監視網を駆使して反体制という「犯罪者予備軍」を攻撃し、少しでも彼らに法的ミスがあれば、瞬く間に牢屋へ送り込む。こうした一連の現代における監視社会の惨状については、決して少なくない人々が心を痛めている。その惨状自体というより、この監視社会に抵抗できない自分たちがこそ心を痛ませるのだ。我々は無力で、いくら反対してもいくらデモンストレーションをしても監視社会の拡大が止められない。人々の権利が侵害されるのに、それに異議を唱えようものなら自分が餌食になってしまう。
暗鬱な時代の中で、去る四月九日に投稿された動画がなぜここまで拡散されたのか。市民を監視するカメラの破壊に、なぜここまでの「いいね」がついたのか。それは決して、ただ単に動画が面白かったからというだけの理由では済まされない。誰もがこの監視社会に閉塞していたからこそ、彼の単純な「盗撮されたから破壊した」という論理に爽快感を覚えるのだ。カメラを破壊するバットのフルスイングは、決して「単なる跳ね上がり」という言葉では片付けられない魂の力強さがある。これは侵害された権利を真の意味で回復しようとする者の、唯一無二の魂の力強さなのだ。 我々は精神の面で彼の力強さに続かなければならない必要がある。監視社会の牢獄を本当の意味で破壊しなければならない。現在する五百万の監視カメラに本当の意味で立ち向かうのだ。これは人々と、人々を監視する彼らとの戦争である。言うことはもはやひとつだ。
カメラを壊せ!
(流川青以)