お断り:僕はここでこの「事件」やその「真相」とやらを扱いたいわけではない。知りたい人間は週刊誌でも、まとめサイトでも見ればいい。また僕はこの事件に詳しくはない。故にこれは一種の「創作」として存在していると理解してもらいたい。
二人今、夜に駆け出していく
YOASOBI『夜に駆ける』
いつだってそこにいたんだ
少女はさっさと死んじゃった
EBIに聞いたって分かんない
彼女のメッセージ
いつだって叫んでたんだって
神聖かまってちゃん『るるちゃんの自殺配信』
四月のある日、二人の少女たちが夜へと駆けていった。
数秒の沈黙後、鈍い音が響く。そして夜の沈黙だけが残った。
M市の少女二人の自殺配信。この動画はSNSで拡散され、多くの人々がこの事件を「目撃」した。
ある人は「大切な命なんだから…」と使い古されたモラリスティックなことを言い、彼女たちの選択を批判した。ある者は「自殺するような弱い奴らは死んだ方がいいんだよ」と彼女たちを嗤った。
学校や職場でのいじめ、ネット上のトラブル、借金。さまざまな理由で人々は自殺する。その度にこのような「ある人」たちによる批判と嘲笑が聞こえる。けれどその言葉は空虚である。
自殺した二人のTwitterアカウントを見ると片方は神聖かまってちゃんや大森靖子が好きであったそうだ。自殺やリスカなどの自傷行為が主題として扱われるカルチャ―を身近に感じ、その影響に彼女があったことは想像に難くない。
しかしここで僕は「良識」派が主張するようなカルチャーの青少年への悪影響を非難したいわけではない。
1993年、一冊の本が出版された。鶴見済『完全自殺マニュアル』。
この本は当時一大センセーションを巻き起こし、有害図書になったというイワクつきの本である。
しかし著者は後書きにも書いているように「いざとなれば自殺してしまってもいいと思えば、苦しい日常も気楽に生きていける」というマトモな動機からこの本を執筆している。事実、この年の自殺者数は減ったらしい。
ここからわかることはもしもの時の手段としての自殺が生に意味づけをする時代があったということだ。それは半ばネタであり、ネタであったからこそ実存的なニュアンスを持っていたと言えよう。
ところが現在はどうであろうか。今や国民的アニメの主題歌を担当するバンドが自殺配信をテーマに歌っている。
かつてのアングラ文化はあくまでアンダーグラウンドであり、市民権を得ていたとは到底言えまい。それは圧倒的少数派のネクラ層やオタクが享受する特権的文化であった。
だが、そのアングラ文化が徐々に市民権を得て(「アングラ」の地上出現)、それがネットなどによって大量に生み出されたいじめられっ子、陰キャ、メンヘラ層によって消費されるという現象が発生した。彼らはかつてネクラやオタクよりも圧倒的に多く、心の闇も深い。その結果、ネタはベタに変わる。そうするとネタとしての文脈を知らない多くのフォロワーが生まれる、
やがて文脈から切り離された文化とそのフォロワーは暴走を始めるだろう。自殺の障壁はなくなり、漫画の登場人物みたいに手首を切る。自殺配信はスペクタクル化する。
これが現在生じていることだ。だから彼女たちの自殺は驚くべきことではないのだ。
こうした現状分析を終え、僕たちはようやく彼女たちの自殺そのものに向き合える。
彼女たちの選択は果たして間違いだったのか。それは現実に負けた少女たちの逃走に過ぎなかったのか。それとも闘争であったのか。
少なくとも彼女たちの死はこの鬱屈とした社会に一種の革命を起こした。主体的でなくとも亀裂が入ったのだ。
もはやネタではなく、ベタとしての自殺が抵抗運動と化す。それはスペクタクル化したが故の効果でもある。
すると「ある人」たちによるモラリスティックな批判を含むあらゆる他者による批判(それが嘲笑であろうが、倫理的批判であろうと)はスペクタクルの観客として回収されてしまう。
僕は決して自殺を推奨するわけではない。ただ抵抗の手段として厳然と存在しているその事実を書いているだけだ。
と同時に推奨とまではいかないにせよ、この鬱屈とした社会の中にいては肯定したくもなってくる。あくまで消極的にだが。
新自由主義による弱肉強食の戦いに敗れ、もしくは国家、管理教育、権威的な家庭に押しつぶされて自分らしく生きられない者にとって彼女たちの選択は輝かしいものとして映ったであろう。
実際に彼女たちのように死ぬかどうかは別である。しかしここに現在の抵抗のモデルがあるのだ。強大な競争と搾取、そして保護。これらに抵抗するには自らの「死」を差し出さなければならないのだ。
「お断り」で書いたが、それでもこれでは彼女たちの自殺はそんなものではない、失恋による些細な原因によるものだと野暮な批判をする連中がいるかもしれない。
だがそれは的外れだと言わざるを得ないであろう。SNSが人間一人をたやすく殺せてしまうこと自体が、SNS、さらに言えばインターネットが自由な空間ではなく、国家や学校、家庭と同等かそれ以上に人間を自分らしくさせないものであると宣言しているようなものである。SNSもインターネットも「死」の差し出しによって破壊されねばならないのだ。
半ば陰鬱な話になってしまった。「死」を差し出す抵抗。
けれど「何があっても生きるのよ」と言われるよりは「ほんとに苦しかったら死んでいいのよ」と言われる方がはるかにマシであるのも事実なのである。「生きていることがすべて」という「生の全体主義」は共産主義や資本主義、ましてやナチズムよりも危険なイデオロギーであることを人々は認識しなくてはいけない。「生きる」が語られるのと同次元で「死ぬ」ことが語られ、死よりも生に恐怖を覚える闘病患者、狂人、メンヘラにこそ焦点が当てられるべきなのだ。そしてその感覚が彼女たちやトー横キッズ、メンヘラにはあると僕は思う。
かつて宮台真司が「終わりなき日常を生きろ」と言った。しかし今挙げた種類の人々にとって「終わりなき日常」はもはや生きるべきものではなく、そういった意味ではいつでも「終わりうる日常」が広がっているさえ言えるのではないだろうか。新時代の弱者には「生きろ」という言葉すら空疎なものと聞こえる。
山上徹也にしたって彼には抵抗がほとんど見られなかったという点では既に「死んで」おり、その上で安倍晋三を暗殺したのである。実際に死んでいるかどうかは関係なく、「死んだ」人間による行動が社会を変えるのだ。
ここで僕たちはこう断言しなくてはならないであろう。現代における新たな侵略戦争は「死者」によるものだと。そして弱者を支援したいのであればこの新たな侵略者の側に立たねばならいのだと。
夜に駆けていった彼女たちはこの時代を象徴しているのである。新時代の思考はまさに山上だけでなく、彼女たちをも捉え始めた時にその弱々しい花弁を少しずつ開き始めるのであろう。
中牟田聖司