鉄道問題の根本的な解決を呼びかける

ー留萌本線ルポ

 深川から乗った一両の列車は客を乗せるとすぐに発車した。留萌行最終電車は一時間をかけて、留萌へ向かう。沿線の若い人が多い感じであった。旭川のあたりに遊びに行った帰りなのだろうか筆者が昔に利用していた夜の同じローカル線の夜の独特な空気感である。
 留萌駅からはタクシーに乗っておそらく帰宅する人も多かった。
駅前には最終電車から降りた人以外はなく、タクシーが駅の周りをぐるぐるとしている。私はホテルに向かうためにタクシーに乗り込んだ。
この時期(12月中旬)になると観光客もいなくなるとタクシーの運転手から聞き、もっぱら工事の作業員などが来るようだ。
 札幌の商工会議所ではオリンピックの誘致の垂れ幕があり、街には新幹線の早期開業を求めている看板が建っていた。
 北海道の街はどこか鬱屈した雰囲気がある。それは、留萌だけでなく、名寄や稚内、網走でも感じられた。それらを打開するためのオリンピック、新幹線なのだろう。しかし、それは上昇させるのではなく少しの延命になるだけだ。
 留萌駅で話を聞いた。JR北海道と、留萌市などの沿線自治体は22年8月にバス転換などで合意している。
 深川の病院に行く際に留萌本線を使う人が極稀にいるが、しかしバスのほうが安くバスは病院の目の前まで連れて行ってくれると教えられた。留萌本線の留萌増毛間が廃止されてからは、よりいっそうバスのほうが便利であると教えられた。市内をぐるぐると周りながら留萌駅に向かってくるので時間は鉄道よりもかかるとも教えられた。
 留萌駅自体も今現在はバスターミナルのような使い方をされている。そのためか無理してでも鉄道を維持しようという感じは地域住民からは感じられなかった。諦めのほうが強い感じだろうか。
外部の人間が鉄道を維持しようなんて声高く言う(もちろん、地域住民も一定数いることは承知している)が、それは地域住民の意見を軽視したロマン主義でしか無いのではないか?

ー共同体の縮小を考える

 留萌市は、バス転換を起爆剤に街の活性化を図りたいようだ。それが、地域住民の声なのだろう。北海道新幹線や札幌オリンピック同様にうまくいくかが心配ではあるが。東日本大震災からの復興を謳い衰退している日本を上向きにしたかったであろう東京オリンピックは失敗に終わったように。
 国の支援に頼った鉄道運営は父権主義的であり、地域の共同体の意識改革と共同体で維持していくという意識が必要である。地域の共同体の鉄道だという認識が必要でありそれらを持ってもらうためには、その地域の住民の自主的な共同所有と共同出資、出資を行った住民による経営の参加などが必要である。
 まず、国の支援の問題というは税金として払ったお金が鉄道会社の支援に当てられるまでの長い道のりは自らが鉄道を維持しているという意識を忘れさせてしまう。また、税金は強制的に徴収されたものであり、お金の使い道など取られてしまうことに変わりはないのだからと興味を無くしてしまう人も多いのではないかと考える。
地方自治体の支援であってもその意識に影響を与えており、また大合併で地域の共同体といった地方自治体の性質は大きく変化し郡を越えた合併や旧律令国を越えた合併が行われているように、地域の共同体とは大きく逸脱したものへと肥大している。
 現在の地方自治体は地域住民の代弁者とはいえず、共同体の建設と地域住民による自主的な出資が必要であると考える。みんなで出し合ったお金でみんなで所有し維持するという意識が生まれる。また、地域住民によるダイヤの要望や駅の設備に対する要望なども調整がしやすくなる。
 それら意識を生み出すためには、地方自治体の縮小と分権が必要である。農村であればそれらは集落における協働と相互扶助を旨とした共同体であり、都市であれば街区、町丁における民主的な市民の評議会による統治とそれに伴う共同体とそれらの連合が日本の新しい形となる。
 先に書いたように中央集権的な父権主義的な国の支援というのは根本的な問題の解決にはならず、それは鉄道問題の先延ばし、鉄道の延命にしかならない。
問題の先延ばしの結果が今の惨事であり、病は更に深刻になる一方である。共同体の建設と地域の住民による、地域の住民の為の鉄道への移行はこれら地域の諸問題の解決と並行して行われ、地域の住民による鉄道の共同所有、共同出資、経営の参加といった持続可能な形となる。
(吉野陽向)