疎外される学習意欲

 人間は世界に後れて存在する。そのため、人間は先天的に無知であるため、とりあえず体を無目的(内なる自然!) に動かし、世界から「何か」を獲得しようとする。この行為こそ学習の根幹であり、「何か」こそ知識なのではないか。やがて知識を得ると、「まだ何かを知りたい。」となるだろう。つまり人間(生徒)はまず学ぶ意欲を少なくとも内在しているのだ。
そして学校は本来学ぶ意欲を全面的に肯定するものでなくてはならない。
しかし、現代の学校は果たしてそれを肯定できているだろうか。イヴァン・イリイチは『脱学校の社会』の中で、「学校」について、特定の年齢層を対象とし、履修を義務づけられたカリキュラムへのフルタイムの出席を要求する、教師に関連のある課程であり、これに長い年月にわたって申請な特別の場所に、若者を物理的に幽閉するものと定義している。そのうえで、イリイチは「学校」は生徒の主体的な学ぶ意欲を「疎外(:人間の本質を奪うこと)」し、教育する側の管理、操作に都合がいいようにあるといった。しかし、学校は歴史的に元々このような管理装置でなかったのだ。というのもまず、学校教育自体が一部の特権階級のものであった。しかし、近代以降、権力の形態が変化したこととともに、大きく変わった。ミシェル・フーコーによると、19 世紀以降、犯罪学や刑罰は「実際の法規の実際の違反レベルにおいてではなく、行為の潜在性、つまりその潜在性が表示する行為が起こりうるというレベルで考慮されねばならない」という考えであった。よって個人のコントロールに力点が添えられていくのだ。そしてもはや、刑罰制度は司法権力の手中にあるものでなく、「警察や監視と矯正の制度のネットワーク」によって遂行されていき、ここでの矯正の教育学的な役割を果たすのが学校である。そしてさらにフーコーは言う。「現代では、これらの施設はすべて―工場、学校、精神病院、病院、監獄―排除ではなく、逆に個人の固定を目的にしています。…(中略) 学校は個人を排除せず、閉じ込めようとさえして、知の伝達の装置に彼らを固定しようとします。…(中略) 十九世紀の軟禁の目的が、取り込みであり、規範化なのです。」徹底・効率化したパノプティコン的な監視、時間的な軟禁、よき社会人になるための詰め込み教育によって、人間を没個性・画一化することが近代以降の「学校」は目的化した。そして、管理教育の元では生徒は学ぶ意欲のみならず、その人間性全体が疎外され、臣従体となる。こうなれば、学習に対する脱力感や思考停止のみならず、公共性の欠落などを誘発する。すると生徒は、疎外されて空いた穴を埋めるべく、ある幻想(例えば流行や「友達 100 人」などのタームなど)を共有することが過剰に要求される。こうなれば必然的に幻想を共有するものとしないもので対立関係ができ、いじめが起きることも免れないだろう。

Hieracta