みなさんは三重県志摩市にある渡鹿野島をご存じだろうか?数年前高木 瑞穂氏の『売春島 「最後の桃源郷」渡鹿野島ルポ』が発売され話題となったあの島である。渡鹿野島は「売春島」と呼ばれ最盛期には人口500人余りの小島に200人もの性風俗産業従事者が生活していたとされる。ルポによればかつて「小さな新宿・歌舞伎町」と言われ隆盛を極めていたそうだが、近年は島の性風俗産業はめっきり衰退し、2016年の賢島サミット開催に備えた警察当局による浄化作戦により、長年続いた島の性風俗産業は止めを刺されたと言われている。
さて、筆者はかねてよりその渡鹿野島を訪れたいと思ってはいたがなかなか足が運ばず、コロナによる諸般の影響もあり、2022年12月にようやく来訪する機会を得た。近鉄名古屋駅から賢島行きの特急電車で2時間強、志摩市の中心エリアにある鵜方駅で降りて、駅前をぶらりと歩く。鵜方にはめっぽう美味くて安いうなぎ屋があると聞いていたからだ。市街地をぶらりと散策しながらうなぎ屋に向かうと、「お座席は本日満室」とのこと。お持ち帰りのうなぎを帰り受け取りで予約注文し、ぐるっと市街地を散策する。
律令時代は志摩国というれっきとした一国であったとはいえ、伊勢松坂や桑名四日市ほどの活気はないパッとしないエリアである。ルポによれば島で性産業に従事していた女性たちは鵜方駅で買い物をしたらしいが、筆者ですら退屈するような刺激のない一地方都市、10~20代の女の子がはたして、満足できる買い物ができたのだろうか、ネットの普及により徐々に島の裏風俗が衰退していくのは時代の趨勢上不可避だったのではないだろうかと思いをはせ、鵜方の市街地をのんびり撮影しているうちに、間抜けなことに12時台のバスを乗り過ごしてしまった。次のバスはほぼ16時、月曜のこともあるので島内で宿泊はできない。徒歩で行く場合渡鹿野島対岸渡船のりば(志摩半島側)まで片道7キロとそれなりの距離はある。島内散策に入る前に不要な消耗は避けておきたい。
そこで今回は背に腹は代えられぬということでタクシーを使うことにした。駅前ロータリーで乗合タクシーを捕まえ渡鹿野島までいくらでしょうか?と運転手に尋ねる、「あーここからだと2800円になるねえ」とのこと。ここで、ちょうどマイナポイントが1万円残っていたのでスマホ決裁で支払うことにした。私はどうも岸田政治は好きにはなれないが、今回はマイナンバーカードの健康保険と公金受取口座登録でマイナポイント1万5000円が支給されるというキャンペーンに感謝した。
タクシーの運転手に渡鹿野島対岸渡船のりば前のバス停まで走るよう依頼する。運転手にストレートに「渡鹿野島と言えば裏風俗、立ちんぼやちょんの間などの情報、知っていますかねえ」と2000円握らせれば何かしらの情報を教えてくれたかもしれないが、「2022年現時点、島のやり手婆は1名、廃業説あり」と下準備で調べておいたので今回は控えることにした。
30分ほどすると渡鹿野島対岸渡船のりばに到着となり、水上バスを待つことになる。海風がヒンヤリとするが快晴、水上バスの待合室から島までわずか500mあまり、目の前にはミニチュアのような志摩半島的矢湾の黒々とした穏やかな海、ぶかぶか浮かぶモーターボート漁船それに水上バスの航跡、目と鼻の先には渡鹿野島の海岸沿いの観光ホテル群と朱色の灯台、島の後ろには近鉄グループの誇る日本屈指のテーマパーク志摩スペイン村のアトラクションがうっすらと見える。
私は渡鹿野のあまりののどかな景色に拍子抜けしてしまった。
私は目の前に広がる渡鹿野島のあまりにものどかな景色に拍子抜けしてしまった。というのも、筆者には渡鹿野島は非常に怖い島だという偏見が今も根強くあったからだ。今から25年前、1998年に伊勢市内の出版社に勤務する女性記者A(記者とあるが新聞記者ではなく雑誌の取材記者)が行方不明になったと言われる事件[1]があり、最後に消息を絶ったという島が渡鹿野島であったと言われている。JR伊勢市駅の構内には「Aさんを探しています」というポスターが張られており、ずっと気になってはいたが一人で出かけるにはちょっと勇気のある島ではあったのである。
しかしながら目の前にあるのは、非常にのんびりとした牧歌的な光景である。おまけに休日の真昼間だというのに待合室には私1名しかいないのだ、快晴だというのに。黒色の的矢湾は波がぶかぶか揺らめいている。眼前に広がる小島はもはや売春島ではなく、完全に「かつてそう呼ばれた島」になってしまったのではという予感がした。とはいえ帰りのバスが来るのは夕方である。「タクシー代2980円は手痛い出費だった。これは土産物屋[2]で饅頭か名物の羊羹でも買って帰ることになりそうだな」と思いつつ待合室で水上バスを待つことになった。
さて10分ほど待っただろうか、なかなか本格的な水上バスが波を切りながら対岸からやってきた。志摩と本土の往復ピストン輸送専用に使う渡し船としては立派過ぎる水上バスである。
やや年季の入ったバスに乗りながら、「年末に私はいったいなにやってんだろう…」と自問自答を繰り返すのであった。物事の予定を決めると数年間は計画を諦めきれない性分なのである。渡鹿野島の経済は歓楽のメッカであった00年代前半から劇的に縮小している。島の性風俗産業などというものはとっくに冷え切っているのが、事前の情報収集で分かりきっているというのにもしかしたら、やり手婆(遊郭で遊女の指導・手配などをする女性の意。年配のため引退した可能性が高い)に遭遇できるのでは?と淡い期待を抱いているのである。
とはいえ、渡鹿野島は今や人口わずか172人、島の主力産業であったリゾート産業もコロナでめっきり干上がり人口に至っては最盛期の4分の1に減少し、高齢化が伊勢志摩で最も進行している過疎地の島に過ぎない。過大な期待を抱くのはナンセンスであるが。
さて船着き場に到着し200円を払い上陸したところで予感は的中した。渡し船の待合所に観光パンフレットの類が1枚も見あたらないのである。また島の入口に立体模型のマップがあるが、潮風にさらされ劣化しているのか非常に見にくいものなので、携帯端末の地図機能を参考にすることにする。Googleマップと現在地をいちいち照合しつつ、微調整して探索を進めるという「Googleマップ軍師様」を進めていくしかないのだが一つ気になったことがある。休日の昼の1時台の観光地にもかかわらず観光客がほとんど歩いていないのだ。島内を歩くと数名程度とはすれ違うのだが、とにかく静かなのだ。島内のメインストリートである「市街地(ママ)」は、かつては観光ホテルやスナックが立ち並び街娼がずらっと並んだと言われるエリアなのだが、性風俗産業の舞台となった観光ホテルやスナックは廃墟となり、島の入口の喫茶店「かいげつ」しか昼過ぎの時間帯は営業していないのである。また、島内唯一の生活雑貨スーパーは日曜定休日のためアテにはできない。腹ごしらえの環境も整っていない状況下なので、とりあえず山の手に上って島を一望してみることとする。坂道を上り島の保育所があったとおぼしき場所から、島の前景、住民の居住エリアを俯瞰すると対岸の阿児町のかつて国府がおかれたあたりが一望できる絶景である。さてここで保育所と書いたが驚いてはいけない、渡鹿野島には小学校分校も保育所もあったのだ。まあ、小学校は戦前に本土の鵜方小学校に統合されたのだが。島の居住エリアをこのままさらに奥に進むと海に突き当たるが、それよりは西側に移動し性風俗従事者いわゆる「嬢」が生活していたアパート跡を調査したほうが有益であると考え、島の高台に別れをつげることとする。しばらく道なりに歩くと雑草の生い茂る中に島内に居住した「コンパニオン」の宿舎だったとおぼしき、プレハブのアパートがみえてきた。ボロボロでひび割れた外壁にはツタが絡み荒れ放題、廃墟同然であった。いや間違いなく廃墟である。
(渡鹿野島旅行記 続く)
(小田井わつき)
[1]実際はこの女性記者失踪事件と渡鹿野島は無関係である。ネット上で広まった根拠のない、いわゆる「都市伝説」にすぎずAと渡鹿野島の接点はない。第一、Aが失踪した場所は島から40km以上も離れた伊勢市内である。なおポスターは撤去済なので注意(2023年1月調べ)
[2]島内の土産物を気軽に購入可能な店は日曜定休日なので注意されたい