書評 神と国家

さて、私はこの頃、アナキズムの理論書を求めるべく、ネットの海を漂っていた。そんな中、某通販サイトにて「おすすめ商品」の俎上にこの作品が挙がっていたので、ものは試しにと手に入れたわけだが、いざ古典を紐解いてみるとなかなか難解だった。果たして全体的な要旨の数割も掴めたか、というような惨状の読書だったものの、まあ私なりに書評とやらをだべってみたい。バクーニンがこの作品を著したのは、一説には1871年ごろと言われる。彼の生前に作品が日の目を見ることはなく、没後6年を経た1882年に「鞭のドイツ帝国と社会革命」の所収作品として出版された。彼は集産主義アナキズムの代表的論客として名を馳せ、その説は本作にも色濃く反映されている。作中で一貫して主張されるのは、「妄想の集合・自由のくびき」という観点での、国家とキリスト教の同一視=唯物論である。国家への参加とは権力への人権の返上であり、キリスト教の信仰とは唯一神や聖職者への隷従(彼の句を借りれば「一人の至高な主人の前における平等な奴隷たちの境遇」)なのだ。その奴隷たちの境遇とは、「強大な存在に対する無批判」というある種の思考停止だ。豚のように肥育され、赤子のようにあやされ、権力に愚弄されるディストピア=個性を排斥し、幻想としての「統一」をうたう全体主義的な状況だ。それを踏まえた上で、彼は人工的な構造である国家を離れ、国家という存在の解体後に自然発生的に建設される「社会」(注意;ここで彼が指すのは、ルソーが夢想したような社会契約に基づく「近代社会」ではない。「近代社会」とは、ただの権力迎合、もしくは理想論に過ぎないためである)を理想像としている。そもそも、ヨーロッパの議会内共産主義勢力や日共が唱えるような、社会主義移行における平和革命論では、政権移譲後も既存の統治機構を温存する以上、情勢は反動へと回帰するおそれが退けられない。反動化の危険を完全に退けるには、やはり実力的手法による権力の解体が最も有用である。彼はその現実を直視し、権力奪取への手段として暴力革命を提示する。この点において、彼を代表とする集産主義アナキズムの思想は、最終的に議会主義へ傾くこととなったマルクスの思想と方法論が異なる。そして彼は、マルクス主義をイデオロギー的にも否定する。マルクス主義は結局ルソーの延長線上にあり、少数の革命家が人民を啓蒙し、全体主義的な「プロレタリアート独裁」という約束の地を空想させるだけの欺瞞に過ぎないためである。空想は必ずや瓦解する運命にあり、その瓦解が招くのは官僚主義と硬直だ。結局、20世紀にその予測は実証され、今となってはマルクス主義を標榜する国家や組織の不自由性が露呈している。彼が本書で説いたアナキズムの目的とは、「自らを(現世にある内に)解放すること=国家の廃止」であり、「共産党宣言」などで示された「革命の全面成功後の国家の廃止=遠い将来における解放の実現」といったマルクス主義思想とは根本的に差異があった。集産主義アナキズムとマルクス主義は、ときに同一視される。しかし、これらの思想は目的やイデオロギー、権力奪取の理論といった観点について相いれず、同一視するのは誤っているだろう。バクーニンの破壊的な思想は、その到達点において、典型的な<空想主義>だったかもしれない。いや、そう形容する他無かっただろう。しかし、理論においてその先進性は否定できず、これは「国民国家」という概念に縛られながら現代に生きるわれわれの、一つの糧となりえる。今のところ、われわれはルソーやマルクスが唱えた近代社会から脱せていない。マルクスの偽善性が見破られ、すべての変革運動の停滞が明らかとなった今こそ、彼の理論は一考に値する価値を持つのではないだろうか。この搾取的な現状に抵抗し、人々の協同による社会を夢想するならば、いわば必読の書だ!(山下晴)
世界の名著 42 プルードン バクーニン クロポトキン(中央公論社)