ファシズム批判

今年はミュンヘン一揆から100年の年であり、更にナチスの政権獲得から90年の年でもある。昨今、アナキズムやリバタリアニズムが注目されるなかで、その実践的な手段としてのファシズムが注目されつつある。そのため、今回はファシズムについてなになのか?そしてなにを批判されるべきなのか?について書いていこうと思う。
ファシズムは第二次世界大戦によるファシズム代表者の敗北と共産主義諸国によって敵を罵倒する目的でレッテル貼りがなされ、本質を掴むことが難しくなった。言葉の氾濫とも表現され、それは学者の間でも指摘があったようだ。例えば、革共同革マル派などは岸田政権をネオファシズムと評価しており、また市民団体なども安倍政権をファシズムと評価することもあった。

左翼の政治
ロシア革命と第一次世界大戦後の革命的情勢の中で各国の共産主義勢力、社会主義勢力が増大した。イタリアの労働総同盟は14年から20年の間に組合員を32万人から220万人に増大させ、ドイツでは250万人から800万人に増大させていた。
しかし、イタリアでもドイツでも20世紀前半の共産主義勢力、社会主義勢力は敗北した。例えば、社会民主主義とファシズムはスターリンによって双生児であるとされた。(社会ファシズム論)
 イタリアにおいては、社会主義革命は目前まで到達したが、無能さを発揮した左翼は分裂し、ファシズム勢力によって各個撃破されることとなった。ドイツにおいても、イタリアにおいても左翼同士が共闘することはできず、それまでの左翼の巨塔であった社会党、社会民主党は分裂していた。ドイツでは社会民主党と共産党の二つを合わせると1932年の段階ではまだ、ナチスを上回る大きな力を持っていたがしかし、この二つも分裂していたことで各個撃破される。

”革命の波は、一九二〇年九月に北イタリアの工業諸都市で労働者たちが工場を占拠し自主的に管理しはじめたときに最高潮に達した。まるで社会主義革命はすでに成功してしまい、あとは勝利を確実なものにしさえすればよいかのように思われた。しかしこの状況のなかで、イタリアの左翼は革命を完成させる構想をなんらもってはいなかったことを暴露した。社会主義者たちは見かけはラディカルな宣伝をおこなったにもかかわらず、武装蜂起や政治的権力獲得のための準備にとりかかりはしなかった。革命はただ口さきで唱えられるにすぎなかった。他方、大土地所有者や工場主たちはすでに目的意識的に反革命を組織しはじめていた。”[1]

”(ドイツ)共産党は「社会ファシズム」論によって次のような結論にたちいたった。つまり、デモ行進中の労働者やストライキ中の労働者にたいする警察のテロとか、ブリューニング大統領内閣の樹立にみられるように、ブルジョア国家は遅くとも一九二九ー三〇年にファッショ的なものになった。社会民主党はこのようなファシズムの主要な支柱である。なぜなら彼らはプロイセン警察を牛耳り、ブリューニング政府を容認しているではないか。「社会民主党はドイツ・ブルジョアジーにとって最良の防衛部隊であり、ファシズムと帝国主義が革命の城壁を打ち砕くための大きな槌である」「ドイツのファシズムは黒いシャツを着ているのではなく、黒赤金の腕章をつけている」と。”[2]

ドイツ共産党の敗北の結果、コミンテルンの今までの方針であった「社会ファシズム論」は否定され、「統一戦線論」が採用されることとなる。フランスではその結果ファシズム勢力の伸張を人民戦線によって阻止している。
スペイン内戦での左翼の内ゲバについても紹介したいが、文字数の関係で省略させてもらう。
(スペイン内戦の内ゲバについてはジョージ・オーウェルのカタロニア讃歌を読んでもらうのが早いと思う。スペイン内戦におけるバルセロナでのアナキストとスターリニストとトロツキストの内紛が描かれたルポルタージュである。)

”イタリアの労働者階級の敗北はいろいろ教訓的な性格をもつが、その後の反ファシズム闘争に決定的な意味をもったいくつかの結論がそこから引きだされる。つまり、まだ一九二二年には社会主義者たちのあいだでは、ファシズムの権力奪取はブルジョア的政治家連中の内部問題にすぎず、ブルジョア国家にたいしては原理的な敵として非妥協的な闘いをしなければならないのだ、という考え方が支配的であった。したがって、ブルジョア民主主義とファシズム独裁との質的な相違は無視された。なるほど、この二つの国家形態はブルジョア国家が形を変えたものであり、双方とも私有財産とブルジョア的社会秩序の維持を目的としていることはそのとおりである、しかし、質的な差異は次の点にある。ブルジョア民主主義は反対派の活動を基本的に認めている(たとえそれが個々の場合、反対派の活動を妨害するにしても)のにたいし、ファシズムは労働者運動を抑圧し、抹殺するという点である。したがって、ファッショの現実的な戦略は次のことから出発しなければならない。左翼がファシズムに反対し、ブルジョア民主主義を防衛することには基本的な利益があり、またファシズムの脅威があるときには、ブルジョア民主主義の維持に関心をもつあらゆる反ファッショ勢力との連合を追求しなければならない、ということである。なぜならば、ブルジョア民主主義は労働者運動が合法的に存立するための基本的な前提であり、そのことによって、社会主義的民主主義へ発展するための潜在的な条件でもあるからである。”[3]
(イタリアのファシズム政権誕生までの左翼の混乱については藤沢道郎のファシズムの誕生を読んでもらいたい)

実践の中から
ファシズムは様々な出自があるが大きくはサンディカリズムから誕生した。ムッソリーニは革命的サンディカリズムの祖である、ジョルジュ・ソレルの弟子を自称している。サンディカリズムとはフランスの労働運動の実践から生まれた思想であり、サンディカリズムは労働組合主義とも訳され、労働者の組織(労働組合)を唯一の組織と考え、それによって公平な政治を行うという考え方である。

”運動にさきだって革命の具体的プログラムが存在するのではなく、「叛乱行動」と価値づけうるような闘争が、まずもって展開さるべきものであり、革命への展望はその運動のなかでみいだされていくもの、すなわち「遭遇する」もの、と確信されていた”[4]

サンディカリズムはファシズム体制下ではもっぱらナショナルサンディカリズム≒コーポラティズムとして活躍した。ナショナルサンディカリズムについては後述する。

”ナチ党は、ドイツ民族を鍛え上げて新しい民族共同体をつくり出そうとした(中略)
このよう組織として最大のものは「ドイツ労働戦線」(DeutscheArbeitsfront)ナチズム独特の適用語によれば、「額と拳の創造的なドイツ人」のすべてを原則として把握すべき組織であった。それは、他多くの大衆団体のいわば上部統制組織であった。ナチズムの理論によれば、その基底には、労働者と雇用主との社会的対立を廃止するという思想があった。”[5]

暴力の信仰
革命的サンディカリズムにおける暴力の信仰はファシズムの暴力の信仰(黒シャツ隊が行った労働組合や社会党社屋の襲撃 懲罰遠征)といった点でも大きく影響を与えている。
ヒトラーやムッソリーニが愛読したという暴力論の中でソレルは政治屋や労働貴族の国家に対する迎合を批判した上で議会主義的社会主義者による暴力の否定はブルジョア哲学によって時代錯誤で野蛮なものだと教えこまれ、それは資本家に提示する革命の回避方法であり、労働者と革命を切り離す行為であると批判している。そして、上からの強制力に対しての下からの暴力が世界を救うだろうと述べている。

”プロレタリア暴力は、階級闘争の感情の純粋で単純な表れとして行使されるので、じつに美しく、英雄的なものとして現われる。この暴力は、文明のもっとも重要な利害に奉仕する。それは、おそらく、直接的で物質的な利益を得るために最適な方法ではないだろうが、世界を野蛮から救い出すことができるのだ。”[6]

”神話は、現実に働きかける手段として評価されなくてはならない。神話を歴史の過程に具体的に適用する方法に関する議論はすべて、意味をもたない。重要な意味をもつのは神話の全体性だけである。神話の諸部分は、全体の構成に含まれる観念をくっきりと浮き彫りにする効果によってだけ、興味深いものとなる。”[7]

”人びとは、権力の行為について語る時にも、反逆の行為について語る時にも、強制力(フォルス)と暴力(ヴィオランス)という用語を使う。私は、どんなあいまいさも生じさせない用語を採用することには大きな利点があり、暴力(ヴィオランス)という語は第二の場合のために取っておくべきだという意見である。したがって、強制力は、少数派によって統治される、ある社会秩序の組織を強制することを目的とするが、他方、暴力はこの秩序の破壊をめざすものだと言えるだろう。ブルジョワジーは、近代初頭以来、強制力を行使してきたが、ブロレタリアートは、今や、ブルジョワジーに対して、そして国家に対して暴力で反撃している。”[8]

これらのように暴力論にはファシズムにも通じる神秘主義的要素と(温和であることをブルジョワ哲学と批判した上で)暴力の信仰がある。

暴力の信仰として未来派の運動が挙げられる。ファシズムの加速主義的な一片は未来派の影響が大きい。ファシズムが未来派によって誕生したとも言えるだろう。
未来派の創設者マリネッティによって1909年に書かれた”未来派宣言”を引用する。

”七・もはや闘争のなかにしか美は存在しない。攻撃的な性格をもたない傑作など存在しない。詩は未知の諸力にたいす荒々しい襲撃となるべきである。それらの力を呼び出して、人間の前にひれ伏させるのだ。

八・われわれは諸世紀の最先端の岬にいる!……不可能の神秘の扉を打ち破らなければならないときに、後ろをふりかえってもいったい何になるだろう?時間と空間は昨日死んだ。いたるところに存在する永遠の速度を創造した以上、われわれはすでに絶対のなかに生きているのだ。

九・われわれは戦争ー世界の唯一の衛生法ー、軍国主義、愛国主義、アナーキストの破壊的行為、人殺しの美しい思想、そして女性への軽蔑を賛美することを欲する。

一〇・われわれは美術館と図書館を破壊し、モラリズム、フェミニズム、その他のあらゆるご都合主義的、功利主義的臆病根性と闘うことを欲する。”[9]

マリネッティは戦闘者ファッシ(ファシスト党の前身となったファシズム運動のための同盟)に最初期から参加しており、マリネッティが言葉の前衛より、政治の前衛にのめりこんだことで未来派の革命性≒加速というものがファシズムの革命性≒加速として大きく影響した。

戦争の加速
ボリシェビキのロシア革命にも、イタリアのファシズム革命にしても、ドイツのナチズム革命にしても、第一次世界大戦が大きな影響を与えている。
第一次世界大戦の認識について、ボリシェビキとファシストの間には以下のような違いがあった。
ボリシェビキのレーニンは自国が参戦するまでは反戦運動を行うがいざ始まると帝国主義戦争を内乱(革命)に転化せよと言った。それは帝国主義戦争が労働者階級の置かれる物質的環境を著しく悪化させるばかりか、労働者階級の階級観念と国際連帯の双方を破壊しかねなかったからだ。
ムッソリーニは帝国主義戦争=革命戦争だと捉え熱烈に第一次世界大戦への参戦を支持した。実際に戦争に動員された若者たちはロシアでもイタリアでもドイツでも革命の大揚力となった。
(ムッソリーニもヒトラーも第一次世界大戦で出征している)

ファシズムが高揚する原因には、また議会制民主主義への不信(それは共産主義者にも、一部のブルジョワにも)が挙げられる。イタリアやドイツのファシズム的な運動には市民による反民主主義的な運動が大きく関わっており、それは自由民主主義者、自由主義者が標的とされた。
そして、退役軍人を冷遇し、兵役逃れを行ったりする背後の敵であるマルクス主義者や社会主義者を攻撃した。

自由民主主義者が掲げた議会制民主主義に対する不満は反(議会制)民主主義として現れ、資本主義に対する不満は経済への介入として現れた。
マルクス主義者が掲げたインターナショナルに対する不満は民族の結束≒協調として現れ、階級闘争には階級の協調として現れた。

ファシズムの反民主主義について
ファシズムの特徴として反(議会制)民主主義というのを挙げた。ファシスト党のローマ進軍ややナチスのミュンヘン一揆など、初期は武力による政権獲得を目指していた。しかし、ムッソリーニも国会議員であり、ナチスに至っては選挙によって政権を取っている。彼らの言う反(議会制)民主主義では、仕方なく議会闘争を行っているのであり、(議会制)民主主義というものを信仰することはない。

ナチスのゲッペルスとヒトラーの政権奪取前後の民主主義に関する演説から引用する。

”……もし民主主義の時代に我が党の在野次代に民主的な方法を我が党に許したとすれば、それは民主主義制度であったからこそ、行なわれなければならなかったのである。だが、我々ナチ主義者は一度たりとも、我々が民主主義の立場を代表するなどと主張したことはない。我々が公然と宣言しておいたとおり、政権を獲得せんがために、我々は民主的手段を利用したに過ぎないのであって、我々が政権を獲得したのちは、野党時代に許されていたような手段は、反対党に対して絶対に認めないのである。”[7]

”……現在、我々が、いろいろな武器をもつ中で、議会主義という武器を利用しているとすれば、これは、議会主義政党が専ら議会主義的な目的のために存在している、ということを意味するわけではない。我々にとって、議会はそれ自身が目的ではなくて、目的のための手段である
(中略)
我が党はただ、強制されて議会主義政党となっているだけであり、かかる強制を我が党に加えているものは憲法である。憲法が我が党にかかる手段を用いることを強制しているのだ……。”[10]

究極のポピュリズムとして
第一次世界大戦の欧州ではロシア革命と大戦後の混乱で各国で社会主義者、共産主義者によるゼネストや革命が相次いだ。ムッソリーニは反動を運動の高揚に利用していることを認めた上で、反動であり続ける、革命を警戒する地主の番犬であり続けることはなく、大衆による革命的な運動がファ

シズムの本質であるとした。(ファシズム運動の参加者は地主や都市の小市民、退役軍人が多かった。)

”いわゆる民主主義諸派が、社会民主主義であれ自由民主主義であれ、国民の中にしっかり根をおろしたものであるかどうかについて、疑問を呈したい。根をおろしたものでないことは、だれしもが認める真実ではないか。ただ選挙の時だけ出てきて票を掻き集めるに過ぎない存在ではないか。現在この国で、大衆に基盤を持った政治勢力は三つしかない。第一にまず社会主義勢力、これはまずその性根を入れ替えなければならんでしょうし、その作業は目下進行中でありますが、第二は 人民党に代表される勢力であり、これは宗教に依拠することもあって、強力な存在であります。そして第三に、複雑で強力で理想に燃えたもうひとつの大衆運動が存在すること、これはもはや誰も否定できない事実であろうと思います。このファシズム運動こそは、イタリアの青年の最良の部分の結果なのであります。私は、この三つの力が、共同の最小限綱領にもとづいて連合し、必ずや、 祖国の明るい未来のために、邁進する時がくるものと、信じてやみません。”[11]

ファシズムが大衆から始まったことは、引用したが、それは結果論として中間層が形成される高度に発展した資本主義を必要とした。また、ファシズム運動が勃興した国の特徴として農村部に封建制が強く残る後進国や新興国、それに加えて経済危機が進行していることが多かった。(ミュンヘン一揆の後好転した景気はナチ党の勢力を大きく削いだが世界恐慌で再び盛り返した)

大衆運動
大きな変革を伴う運動は大衆のよる運動が必要である。そして、大衆運動は欲求不満を抱えた人(退役軍人や脱落した中間層、失業した労働者など)に対していかにして、希望を持たせ自己犠牲させるかということ、そしてそれを統一させることが必要である。
その中で統一に必要とされたのはナショナリズムと憎悪であった。
ボリシェビキもファシズム運動も文化大革命も68年革命もナショナリズムの運動である。それは誰もが、自分の属するアイデンティティを否定する運動に参加したくないからである。

”ボルシェヴィキ革命とナチスによる革命が宗教的な性格を持っていたことはよく知られている。[ソ連の国旗の]鎌とハンマーや[ナチスの]鉤十字は、十字架と同じような種類のもので あり、彼らの示威行進の儀式は、宗教的な行列の儀式と同じものである。彼らの運動には信仰と聖人と殉教者と神聖な埋葬所のようなものがそなわっている。さらにボルシェヴィキ革命もナチスによる革命も、成熟した民族主義的な運動でもある。ナチスの革命は最初から民族主義的な運動であったが、ボルシェヴィキ革命はのちの段階になってから、民族主義の傾向を示すようになったのでる。”[12]

大衆の共通の敵に対する憎悪(例えばお金を持っている者、つまりはファシズムであればユダヤ人だし、ボリシェビキであればブルジョワジーである)を煽ることにより大衆は統一された運動を起こすことができた。

”恋をしている人は、同盟者を求めたりはしないものである。実際にわたしたちは、自分が恋している人に恋をしている他者はライバルであり、恋敵であると考えている。 ところがわたしたちが憎悪するときには、つねに同盟者を求めるのである。”[13]

(大衆運動について詳しくはエリック・ホッファーの大衆運動を読んでもらいたい)

問題の最終的解決について
ファシズムを肯定するにしても、批判するにしてもどうしても”ユダヤ人問題”を避けることは難しい。私はユダヤ人問題について”ユダヤ人”による世界征服やナチス的オカルトを信奉することもホロコーストを支持することも無いことは書きおいておく。ヨーロッパに拡がったファシズム運動にユダヤ人への憎悪が大きく貢献したことは、各国のファシズム運動を見るとわかるだろう。(鉄衛団やレックスなど)
しかし、千坂恭二が言うように、ユダヤ人問題はファシズム固有の問題ではなく、他の運動や思想にも現れた当時としては一般的なものであった。その問題については後日記したいと思う。

”ファシズムを批判する必要があるとしても、独裁や全体主義、反ユダヤ主義、人種差別、大量虐殺というような、しばしば批判的対象とされるようなものでは、実は批判にはならない。それらはファシズムの専売特許ではないからだ。ファシズムを批判するにはファシズム固有の問題を抽出しなければならない。
(中略)
ファシズム以外もしていたということは、むろんファシズムを免罪するものとはならない。しかし、それだけではファシズム以外のものと同種のものとして、一般的な批判出来ず、ファシズムもまた、その他大勢の一つとなり、固有のファシズムに対する批判にはならないだろう。”[14]

大衆運動から前衛党へ
大衆運動であったファシズム運動も先鋭化していく下の者たちへの統制が取れなくなっていく。また、ロシアでの革命が一段落したボリシェヴィキによる共産党を介した介入はムッソリーニはファシズム運動をファシスト党=ファシズム革命の前衛党へ作り替える必要性を与えた。それにより1921年にファシスト党が誕生した。
党内での自由な言論が認められ、党内には共産主義者から自由主義者までが共存し党内民主主義というよりも党=議会のような様相を呈した。イタリア戦闘者ファッシの頃には綱領などもなく、ファシストであればある程度、社会主義者であれ共産主義者であれが許容された。それはアナキズムとも親和性があった。
アナルコサンディカリストの参加というものはよく見られたようだ。
それは今までにない革命的な大衆の運動であることを感じられたからである。
(ムッソリーニは社会党などの社会主義勢力に対して労働者の望むものではなく、自分たちの望む方向に進むために労働者を駒にしているだけだと批判している。)

ナチスではバンベルク会議にて、ヒトラーの絶対性が決定され、また政権獲得後の増えすぎた突撃隊(SA)の横暴とナチス左派、エルンスト・レームの掲げる第二革命(資本主義との妥協を非難し完全な社会主義への移行を目指す)はドイツにおいてのファシズムのアナキズム性というものを長いナイフの夜事件とそれに伴う反対派の粛清によって完全に消滅させてしまった。

革命とは、大衆運動であり自発的な力によって起こるものであって、誰かによって先導されて起こるものではない。
前衛党の中央集権的な体制は大衆による真のファシズム革命から遠ざかり、その後の体制の弊害ともなった。
ボリシェビキにおいて狂気スターリンによる権力の掌握とその後の前衛党的欠陥が発生したのは前衛党と大衆が分断されたことに原因があると一部のレーニン主義者からは指摘されている。(レーニン主義者はしかし前衛党や前衛党の中央集権的については必要悪として肯定的である。)

”レーニンとポルシェヴィキ党員たちは、新しい世界を作り出すために向こう見ずにも混沌のうちに飛び込んだが、彼らはマルクス主義が万能であるという盲目的な信頼によって支えられていた。 ナチ党員は、マルクス主義のような強力な教養は持ち合わせていなかったが、 過ちを犯すことのない指導者を信じ込んでいたのであり、新たに生まれた技術の力も信じてい た。もしも彼らが電撃戦とプロパガンダという新しい技術によって、ドイツが無敵であることを衝撃的なまでに確信していなければ、国民社会主義があのように急速な進展を実現できたかどうかは疑わしい。”[15]

国家の役割
ファシズムとは日本語に訳すと結束主義と訳され、民族の結束≒協調=階級の協調であり、しかし資本家階級の殲滅を行うマルクス主義的な階級闘争は否定するが、階級的な要件を飲ませる闘争の否定は行わない。
イタリアのサンディカリストのアルフレッド・ロッコは国家の役割を福祉と制度と市場の監視であるとし[16]、またイタリアの未来派のマリネッティによって書かれたファシスト宣言(ファシズム・マニフェスト)では国家を維持した上で労働組合に生産の管理を当たらせることが明確に示されている。
自由主義経済と統制経済の折衷、反大資本、反マルクス主義を掲げ労働者の権利を保護した上、国家の信仰と職能別組織による国家の運営を行おうとしたのである。
ムッソリーニは「我々は二つの階級があるという諸君の理論を否定する。なぜなら、階級はもっとたくさんあるからだ。我々は、人間の全歴史を経済決定論で説明しようとする諸君の理論を否定する。我々は、 諸君の国際主義を否定する。なぜなら、そんなものは上流階級しか用いない贅沢品であって、人民は自分の生まれた国に必死でしがみついているからだ。」[17]と述べており、労働者、農民、技術者といったいわゆる、市民を職能別に組織させ、それら組織の協調(利害関係の調整)を行う評議会を構想した。それは、議会制民主主義よりも民主主義であるとされた。

マルクス主義的解釈
左翼の政治の項目で少し触れた左翼(ここではマルクス主義者)によるファシズムの解釈とその問題点について説明していく。
ファシズム解釈を簡単に纏めるとファシズムとはブルジョワジーの採ったプロレタリア革命運動への弾圧抵抗の諸形態であるされた。そして、資本主義の発展の段階で必然的にファシズムが到来するされた。(現在は後者の方には否定的な者のほうが多い。)
ファシズムをコミンテルンは「資本の公然たる独裁」であるとした。
しかし、ファシズムを利用しようと近づいた資本家は欺かれ、気づいたときには既にファシズムに平伏していた。

”ファシズムはたしかに、この闘争の中で資本主義の同盟者であった。しかし、たんなる資本主義の利害の従僕だったのではない。ファシズムの発展には、当時の経済状態と、青年の間に広まっていた経済悪化に対する挫折感とが大きく影響した。だがそれにもかかわらず、基本的に重要だったのは経済的運動ではなくて、抑圧されている人々の烈しい情熱にアピールした一種の攻撃的なナショナリズムなのである。それを純粋に経済的な説明だけで済ませようとすれば、その思想的な力の本質をみのがすことになり、抑えがたい戦争への推進力という、もっとも危険な性質をみうしなうことになる。大恐慌が何百万のドイツ人を失に追いこみ、どうやら失職しないですんだ人々にも劣悪な労働条件をよぎなくさせた、という事情がもしなければ、ヒトラーはおそらくはドイツの権力を握ることができなかったであろう。しかし、だからといって、ヒトラーと彼の指導した運動が経済状況の産物にすぎなかったとか、主としてそういうものであったと、いうことはできない。 たとえ経済状況がヒトラーの権力掌握の主要な原因であったにしても、そうはいえないのである。ナチス運動の本質は、経済的ではなくて政治的なものであった。その運動は、復興し報復しようとする敗戦ドイツの、挫折感情から生まれた。それは、ドイツ資本家階級の道具になったのではなくて、逆に彼らを利用したのである。ナチス運動が創造したドイツは、資本主義というよりむしろ軍国主義的であり、他種族に対するドイツ民族の優越性という狂信的な信念によって導かれた。”[18]

コミンテルンの解釈のようなファシズムがブルジョワジーの新たな支配であるというのは、誤りであり、プロレタリアートでもブルジョワジーでもない小市民(労働者全般)の第三の道であった。しかし、トロツキーの指摘したように、結果としてファシズム体制は小市民による体制ではなく、党内の急進派を粛清し、封建勢力、資本家と手を組み、一部のエリートと独占資本に小市民は従属させる形となった。しかし、ファシズムの本質が変化したわけではない。政治的にも社会的にも特異な形態を保ったのである。

上からのファシズム
所謂ファシズムはイベリア半島、日本、南米へ拡がった。ポルトガルの国民同盟のエスタド・ノヴォ体制やスペインのプリモ・デ・リベラ、ホセ・アントニオ・プリモ・デ・リベラのファランヘ党、フランシスコ・フランコの新生ファランヘ党、日本の昭和維新運動、アルゼンチンのペロンなどである。
(各国のファシズム運動について、詳しくは長谷川公昭のファシスト群像を読んでもらいたい)
日本を除くと資本主義の発展が不十分であり、これら当時の後進国には大衆というものが存在しなかった。そのような地域では軍などによる上からのファシズムが出現した。
日本ではファシズムは第一次世界大戦後の不況と大正デモクラシーの影響による労働争議、農民争議への反動。また世界恐慌による農村の貧困によって引き起こされた海軍将校らによる首相暗殺事件である五・一五事件や二・二六事件天皇親政の社会主義国家の建設を目指したクーデター未遂事件なのど一連の昭和維新運動がファシズムであるとされる。
ポルトガルのエスタド・ノヴォ体制は第一次世界大戦後の不景気により、発生した軍のクーデター(1927年)で作られた維新政府の大蔵大臣に任命された経済学者アントニオ・サラザールによって作られた体制である。イタリアやドイツを模倣しつつも第二次世界大戦では中立を維持し、カーネーション革命(1974年4月15日)によって打倒されるまで続いた。
スペインのフランコ体制はプリモ・デ・リベラ政権の世界恐慌の影響での崩壊後、共和制となったスペインで国民戦線派(ホセ・アントニオ・プリモ・デ・リベラのファランヘ党や王党派など)の将軍たちによるクーデター=スペイン内戦が起こる。内戦中に陸軍フランシスコ・フランコ将軍によって作られた体制である。スペイン市民戦争ではイタリアやドイツ、ポルトガルの支援を受け勝利するが、第二次世界大戦をのらりくらりかわし、中立を維持した。

ファシズム体制の現実
国家の役割で挙げたような理想を掲げた中でイタリアやドイツなどでは敗戦によって、ファシズムの理想は打ち砕かれた。また所謂ファシズム≒ナショナルサンディカリズムを実践しようとしたポルトガルでのエスタド・ノヴォ体制とスペインのフランコ体制を例に上げ理想と現実の比較を行おうと思う。
ポルトガルでのエスタド・ノヴォ体制が打倒されたカーネンション革命後のポルトガルの農村の様子は以下のようだった。

”マヌエルは、自分の「小屋」に私を招待した。彼はこれを、この地方の不在地主から賃借しているのだが、窓も煙突もなく、上、下水道もなければ、灯火もない。 わずかに、屋根のタイルがこわれて、 そこここにあいている隙間から射しこんでくる光があるにすぎない。地面を踏み固めただけの床のところどころに凹みができていて、数日前の雨が屋根の隙間からしたたり落ちた場所を示している。ウサギが四、五羽、外のウサギ小屋で押し合いへし合いしており、七面鳥も何羽か、庭で土を引っ掻いていた。
(中略)
地元官庁が公表した権利証書(四・二五以前は秘密とされていたもの)にもとづく調査によると、エボラ県内で農業に従事する者のうちで、自分の土地をまったく持たぬ者が九四パーセントであった。残る六パーセントのうち、五パーセントはきわめて零細な土地しか持たず、ある時間自分の土地を耕作し、別の時間には大土地所有者のもとで働いていた。最後の一パーセントが大土地所有者であった。”[19]

労働者と資本家の協調というのには小作人と地主の協調というのも当然含まれているが、しかしこのような状態なのである。
そして、スペインのフランコ体制の組織も以下のように分析されている。

”結局のところ、国民サンディカリズムの理念のうち、第三の点「国政への労働者大衆の直接参加を則能とする組合」が実現されることはなかった。中立的普遍的であるはずの国家の介入は、実際には労働者大衆の声を反映しないままに、支配階級としての金融工業大ブルジョア・地主の利益に沿った形で運用されることとなった。”[20]

スペインのフランコ体制では、ナショナルサンディカリズムの理想だけが掲げられたが労働者と国家の等置ということはなく、協調というものは存在せず労働争議は違法化され資本の不正を監視するはずの国家は資本家に迎合してしまった。それは妥協されたコーポラティズムですら無かった。ファシスト党やナチスは宗教とは距離を置き労働者からの支持も厚かったが、フランコ体制は地主や教会と結託し、浸透しつつあった自由主義(それはブルジョワ的なものであっても、プロレタリア的なものであっても)とは逆行した反動の封建制に戻る政治でしかなかった。

反独裁の独裁反前衛の党
マルクス主義者の指摘のように、世界革命が達成されるまでは、国家というものの政府の性質を保証するシステムが必要である。
アナキストであれば反独裁派で、反組織的と思われているかもしれない。しかしアナキズムは組織的な運動であり、アナキスト独裁の立場も存在する。バクーニンの国際同胞団、マラテスタらの社会革命イタリア委員会、さらには昭和初期の日本無政府共産党などが列挙できる。[21]

 アナキズムの実践として生み出されたサンディカリズムも同様に実践化するには、それを国家が世界革命まで監視しなければならない。アナキズムにおいてマルクス主義のプロレタリア独裁にあたるものがナショナルサンディカリズム=ファシズムとなる。実践的にはファシズムもボリシェビキもアナキズムも同質なのである。

まとめ
ファシズムにおいて国家の役割とされた、制度と市場の監視は完全に腐敗した。これらの問題は政治の問題であり、為政者の問題であり、決してファシズ厶運動とファシズム理論の問題ではなかった。しかし、レーニンの前衛党思想の影響を受け、権威主義的で中央集権化してしまい、資本家と迎合した20世紀のファシズム運動への反省が必要であろう。ファシズムの本質は組合運動、共同体運動であり、サンディカリズムの原点へと返り労働者による自主管理(つまりは職場の民主化、生産手段の共同所有共同管理)が必要である。そして、反独裁の独裁、反前衛の党の建設が必要である。(Y)

[1]自由主義とファシズム ブルジョア支配の諸形態 著 キューンル 訳 伊集院立 161頁
[2]同上書 168頁
[3]同上書 165頁
[4]革命的サンディカリズムーパリ・コミューン以後の行動的少数派 著 喜安朗 20頁
[5]ナチス・ドキュメント 著 ワルター・ホーファー 39頁
[6]暴力論(上)著 ソレル 訳 今村仁司 塚原史 162-163頁
[7]同上書 219頁
[8]暴力論(下)著 ソレル 訳 今村仁司 塚原史 53-54頁 
[9]言葉のアヴァンギャルド ダダと未来派の20世紀 著 塚原史 160頁
[10]ナチス・ドキュメント ぺりかん社 著 ワルター・ホーファー40頁
[11]ファシズムの誕生―ムッソリーニのローマ進軍 著 藤沢道郎 261頁
[12]大衆運動 著 エリック・ホッファー 訳 中山元 38-39頁
[13]同上書 155頁
[14]https://twitter.com/Chisaka_Kyoji/status/1373812651067809795
[15]大衆運動 著 エリック・ホッファー 訳 中山元 22頁
[16]ファシズムの原理 他三編 ファシズムの原理 著 アルフレード・ロッコ 13頁
[17]ファシズムの誕生―ムッソリーニのローマ進軍 著 藤沢道郎 244頁
[18]ファシズム論 著 R・デ・フェリーチョ 訳 藤沢道郎 本川誠二 63頁
[19]ポルトガルの革命 著 ウィルフレッド・バーチェット 訳 田島昌夫 228頁
[20]法政史学 フランコ体制とスペイン組合組織 著 大谷拓郎 37頁
[21]歴史からの黙示 アナキズムと革命 著 千坂恭二 124頁