石原崇紘
@takahiro_ishr
長い間禁忌とされてきた存在、その意義を考える必要がある。それはドリュやシュミットについて思いを馳せることである。彼らは物質的実験国家である米ソに対して精神的な存在としてヨーロッパが存在し、物質国家によるヨーロッパへの侵略の危機が迫っていると考えた。
ドリュは危機への抵抗策として文学者としてファシストになり、シュミットは政治の面でそれを行った。
日本は明らかに精神的な国家である。けれど戦後アメリカによる占領で物質化されてしまった。政治面だけではなく、文化・精神面でも日本はアメリカの属国なのである。
故に日本的精神を取り戻すため、我々は天皇を中心とした維新革命を起こす必要がある。これは政治革命でもあり、文化革命でもある。
だがアメリカという大国とその傀儡政権による統治下では国内で革命は行えないだろう。
その上、我々はドリュのように外のファシストによる侵略=解放にも期待できない。
このような状況で如何に革命が可能なのだろうか。
闘争を続ける中で必要なことがある。それは国外亡命の可能性を常に持つことだ。千坂的革命論と呼んでもらっても構わない。拠点を国外に持つことで我々が物質国家・占領日本に対抗できるのではないか。国内抵抗ではアメリカの傀儡政権に弾圧されるだけだ。二・二六事件も楯の会も国外亡命できなかったから負けたのではないか。(ただ三島由紀夫はその死によって志士たちに取り憑き、革命を続けている意味では永続革命者であると言える。黄泉という圧倒的「国外」への亡命は成功しているのである。)
国外逃亡の必然性。それでは日本赤軍のように本当の「国外」に拠点を持つということなのか。
ここで左翼革命と保守革命の間に戦術面における違いが生じてくる。単純に革命を行うのであれば北朝鮮なり、パレスチナに行けば良い。しかし我々が目指すのは保守革命、維新革命である。完全なる海外亡命は国家を捨てたことになり、國體への裏切りに他ならないであろう。
つまり、我々は維新革命のために国外亡命しなくてはならないが、物理的国外=海外ではいけないのである。簡単にいえば国内における国外拠点の必要性があるのだ。
そしてここにおいてはじめて村落革命が現実的戦略として立ち現れる。
村落革命とは名前の通り、村落共同体を拠点とした革命運動である。毛沢東の革命戦術や連合赤軍の山岳ベース理論と同じようなものだと理解していただければよい。
また村落共同体は単純に国内にあるものではなく、吉野朝のような「もう一つの日本」である。国内新政権である。ただ新政権は現在の皇室及び國體を尊び、アメリカとその傀儡政権に占領されて封印されてしまった國體の解放を目指す。これは現実的奪還ではなく、精神的奪還を意味する。
このような崇高な目標を持ち我々は以下の実践的政治も行う。農本主義と日本型社会主義を理念とした政治。農と人間の関わりを通じての平等。自然と調和した豊かなる精神を持った人間の育成。土と真心を中心とした運動である。
こういった実践の成功なしに革命はあり得ないであろう。
ロマン主義かもしれない。妄想かもしれない。こんな革命は起こらないかもしれない。しかし革命は起こるという意識の革命を通して人間は初めて変革の主体になれるのではないか。
それに村落革命は現在の日本への処方箋なのだ。
筆者としては一人でも多くの人がこの村落革命に興味を持ってもらえれば嬉しいし、例えそのような形ではない他の革命であっても支持したいと思う。
今の日本には〈革命〉が必要である。